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突然 右胸部下あたりに激痛が走る!



 今年は、野外で行う職場の夏祭りの担当となって、春先より天候について心配をしていた。

梅雨は、空梅雨という感じで、今年の夏は天候不順になるだろうなっというくらい雨が降らなかった。私は、1haほどの田を兼業農家として営んでいる。例年より過ごしやすい梅雨を過ぎると、私の家の前に広がる田畑は水不足に陥った。私も7月の下旬には毎朝、排水側から揚水ポンプで水かけに行くのだったが、その水も枯れてしまい掛けることもできなくなった。

しかしながら、予想に反して、夏は、昨年に引き続き酷暑に見舞われた。勤務の休みの日を生産組合の作業日に充てていたが、転作あとのそば巻き作業、転作場のほ場整備と休む間のなく、ハナエチゼンの刈り取りと続いた。まして職場の夏祭りが8月26日とあってその段取りや準備にも忙しく取り組んでいた。


そういえば、昨年もこの時期だった。地元の祭りの役を引き受け、酷暑の中田んぼの作業に出て、8月のかかりに風邪をこじらせてしまい、町医者では治らず、大病院で診てもらったら急性肺炎という事で10日間ほど入院した。これはこの病気の前兆だったのだろうか。

「8月22日」
生産組合のハナエチゼン刈取りの出番も終わりほっとしていた矢先、早朝目が覚めると突然右胸部下あたりに激痛があり、起き上がることできず、何とかうつぶせになり起き上がるが相当痛く思うように身動きできず、自分でもどうしたのだろうといやな胸騒ぎを感じる。

 何か悪性のものができたのかなっと嫌な事も頭をよぎったが、寝ていた姿勢から、子供からもらったマットレスの角ので肋骨を痛めたのでないかと思う。肋骨は咳をしたぐらいでも痛める事があるとも聞いていたのでそれくらいのものかと最初は思った。
日中は、祭りの準備もあって勤務は体力的に楽であったのでそれほど気にならず終える事が出来た。

「8月23日」
 夜中も、右胸下あたりに刺すような圧迫されるような痛みが続く。早朝やはり激しい痛みがあり動くことができない。日中は、デイサービスのリーダーだったので痛いながらも体力負担も少なかったので何とか仕事も終える事が出来たが、とてもこの状態では今後は仕事に支障をきたすと思い、たまたま明日は仕事が休みなので整形外科に受診しょうと思う。

「8月24日」
 午前中、痛みを堪えつつも、ある方の成年後見人を受任しており、もう8月には面会に行く日がないので頑張ってお会いする。白髪の柔和なお顔を拝見し、気が楽になる。ちょっとしゃれっ気に「トロが食べたいねぇー」とお聞きして次回は持ってくるねと相槌を打つ。7月に何とか探し当てた墓地に、お墓参りにお連れしたことは、もう忘れている。また、9月に会いに来ますと手を振り、施設の支払いを済ませ、その足で整形外科へ受診。

15:00頃整形外科に到着。待っている間も、じわじわとねじ込むように鈍痛を感じている。熱もあるのか、うつらうつらしながら待合室で待っていると30分ほどなくレントゲン室に呼ばれ胸の写真を撮り診察となる。
先生から、画像を見ながら説明を受ける。画像は、右胸の下のほうが白っぽく見えているが、それほど見えないほどでもなく、あばら骨が見えており胸右下のほうを指しながら「写真ではわかりにくいが下の肋骨のの先に軟骨があり、そこが傷んでいるようだ(ヒビ入っているだったかな?)痛みどめの薬と貼り薬で様子を見ましょう。また1週間したら来て下さい。」とのことだった。

その夜より、処方された痛み止めのロキソニンを毎食1錠と湿布薬を貼って就寝する。痛みもあまり感ずることなく寝る事が出来た。

「8月25日」
朝から、明日の祭りの炎天下の準備が続く。身体の調子は本調子ではないが、みんなと同じように動くことはできていたようだ。痛み止めと湿布薬が効いているのだろう。

「8月26日」
夏祭り当日。
7:00より、家から持参すべき必要品をそろえ、施設に向かい準備を始める。体調はけだるくいまいちだが、みんなで祭りを成功させようと頑張ってきたので、その緊張感と、頭に当日のスケジュールがみっちり入っているせいで、さほど体の事は気にならない。
実行委員を中心に700人近くの人にすばらしい祭りを楽しんで頂いた後、後片付けなどして帰ったのは22:00ごろだろうか。夜中には38度以上の高熱が襲う。薬を慌てて飲み早朝には沢山汗を出し熱を下げる。

「8月27日」
 朝起きて鏡を見ると、顔の右口元近くに転々と湿疹ができている。ちょっとヒリヒリして触ると痛い。なぜだろうと思いつつも、さほど気にも留めず、「どっちにしてもジンマシンの薬をもらいに行く日が近いのでその時に見てもらおうと思う。そういえばジンマシンも長く出ているなー」っと思う。かれこれ4,5年しっかり治さないでいるので手間がかかってしまっている。夕食時晩酌するのでジンマシンはお酒がよくないらしい。不養生になっている。そのせいかなーなどと思った。

 そんな事を考えながら、今までなかった圧迫されるような、刺し込むような痛みを胸下に感じつつも、熱が下がったおかげですっきりして6:00より昨日上げた打ち上げ花火の始末に施設に向かう。土手や、施設周りや他の施設に迷惑が掛かっていないか点検して歩くが、どうも息が切れて仕方ない。ゆっくり休み休み見て回る。
8:00ごろ片づけの職員もそろい本格的に借入してきた椅子、机、ステージ、テント、パネル類、を運び出す。もうその頃はちょっと立っていられないくらいの疲労感と息切れを感じる。みんなからも顔色が悪いと指摘される。何とか痛み止めと、湿布でごまかしているといった感じで、その日は16:00ごろには片づけも目鼻が立ち、みんなに体調不良を告げ、帰宅し、早々に薬を服用し床に就く。

夜中、高熱と痛みに耐えながら、明日は病院受信しなければいけないなーっと思いつつ勤務の事も心配しつつ寝ていると、姉から連絡が入り、妹の義理父が亡くなったと訃報の知らせが聞く。 
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右胸下に、突き刺すような痛みと押さえつけるような圧迫感を感じての一週間

「8月28日」
私は、3人兄弟の真ん中で2歳づつ歳の差で姉と妹がいる。
戦後間もないころ、戦地より帰ってきた父は、夫婦の約束した人も岐阜にいたが、上の兄が戦死し、後継ぎとなり、縁あって、近くの在所から嫁を貰うことになる。その母は、しかし私が4歳のころ、農作業も厳しく、家事に追われ、産後の後が悪く病気で亡くなってしまった。

 小学生のころは、よく学校から帰ると農作業を手伝わされたものであるが、この頃の農作業は、現在とほど遠く機械などなく、すごく過酷なものであった。農繁期の田植えや、稲刈りは在所や、親戚総揃いで手作業で、手間貸しをしながらの共同作業であった。当然、幼子であった私たち3人を父一人で見ることはできず、翌年に再婚した事は、百姓の家では当然の事であっただろうと思う。

 継母は、町の良い所の御嬢さん育ちで、そのような生活に我慢がならなかったのだろう。私もそうだったが、姉と妹は良くいびられていた。そういう場面を見るにつけ、そんな母に反感を覚え、いつも殺してやりたい衝動を抑えていた。でも、親戚や優しい隣近所の皆さんから「我慢しなさい。貴方たちの事は神様はずっと見て下さっているのだから、我慢さえしていれば、きっと良い事がやってくる日が来るよ」と言われそれを信じて我慢してきた。今はその通りに、一番幸せな時を過ごしている。苦労し歩んだ過去は、良い人生経験であり、強くたくましく生きる自分を作り、血となり肉となった教訓は、現在を有意義に過ごす事につながっている。その意味で母親に感謝をしており、若かった母親もまた時代の犠牲者でもあったのであり、今は大事にしたいと思っている。人生若い時の苦労は買ってでもしろという格言は本当だった。
 こんな身の上話は、このブログには必要ないが、だが、私たち兄妹には人に話しても分からない体験を共有しており、その苦しく悲しかった思い出は消えない。それは、姉も、妹も同じ気持ちであろうし、3人のつながりは太くて強いと思っている。

今は、その時に皆さんが諭してくれたように、姉は、中学を出て実母の姉妹の養女に迎えられ結婚し幸せに暮らしている。妹も縁あって近くの在所に嫁に行き二人の子供を授かり幸せに暮らしている。

そんな妹の舅さんの訃報であり、行かずにはおれない。

朝方、痛み止めのおかげで高熱も下がり、早朝、職場に連絡し、有給休暇を申請して休みを頂く。
お通夜、葬儀と続くので体力に不安があって、微熱ながら、胸の痛みも感じながら、近くの診療所に行き、点滴を打ってもらう。
 
 その足で、顔の右口元に転々とした湿疹を見てもらうために皮膚科に受診する。
皮膚科では、湿疹の細菌を調べて下さり、帯状疱疹のウイルスの可能性が高いと言われその薬を処方される。これはストレスや、免疫力が下がると出てくるということである。また、肝臓に負担が高いので、一週間したら診せに来てほしいと先生に言われ帰ってくる。

10:00頃、妹のところに着く。妹は、気が抜けたように台所に立っており、顔を合わせるとお互いニコリとうなずく。妻は、早朝より妹のところに手伝いに行ってくれ台所で茶碗を洗ったり、昼のこびりの準備をしたりと忙しく身体を動かしている。私のじいちゃんも自分で軽トラックを走らせてやって来ており、気丈に(父93歳)杖を使い歩きながら玄関あたりを片づけている。
妹夫婦に挨拶をし、仏間に寝ておられる舅さんに手を合わせ、何年も寝たきりになっていたのに一度しか病院にお見舞いに行けなかった事を手を合わせお詫びする。

 私は、お通夜の段取りもしなければならないと思うが、この調子では何の役にも立てそうにない事を親戚の方にお話し、壁の花になって皆さんの様子を見ているだけだった。
その晩もやはり38度台の高熱が出て、痛みもあり薬を服用すると熱が下がるの繰り返しだった。

「8月29日」
 暑い夏はまだまだ続く。今日もそういった感じで、この暑さは何日続いているのだろう。お盆の前から雨も降らず曇りにもならずの天候が続いている。祭りも終わったのだから「もう雨よ、降れ!」と願いもむなしく葬儀の日、照りつける太陽の下や、クーラーの効いた部屋や車の中、出たり入ったりと普通でも体調がへんになりそうだがしっかり我慢して葬儀に参列する。あぶら汗が流れる。

「8月30日~9月1日」
 葬儀も終わり、仕事に復帰する。祭りの片づけや資料の整理、ケアプランの更新等でデスクワークも多く薬を飲み湿布を当てながら勤務であったが何とか乗り越える。もうそろそろ肋骨の骨折なら治ってもよいころなのに一向に良くならない。それよりもちょっと動いただけでも息切れがするし、顔色も非常に悪くドス黒いと言われ、みんなから大丈夫かと声かけられる。おかしいなー。
 「9月1日」の夜は、職員全体の祭りの打ち上げを兼ね、歓送迎会に参加する。私は主賓なので休む訳にもいかず出席する。元来お酒が好きなので体調も悪いのにガンガン生ビールをジョッキーで浴びるように飲んでしまう。
 案の定、夜はそのせいで眠れず、相変わらず痛み止めを飲み、そのせいか熱も上がらない。毎食後の痛み止めの服用で、少し体がマヒしてきているようだ。


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胸水が溜まっていますね。このまま入院してください。

「9月3日」
 昨日は日曜日とあって久々にゆっくりと自宅で寝ていることができる。明日は大丈夫だろう。先週は葬儀や祭りの始末にいつもの業務がまともにできずみんなに迷惑をかけてしまった。来週の休みの日には大きい病院で診てもらおう。そんな思いで出勤する。

しかし、動くたびにあぶら汗は流れるし、息切れがする。右胸下の痛みは慢性化してさほど強烈に感じず、圧迫されるような痛みが鈍くしている。
 朝の送迎を終えて次の業務に入ろうとした時、デイの複数の看護師より、顔色が悪いわ、熱があるじゃない、血中酸素が94しかない。だめよ!医者に言ってきてと強く進言される。週初めからこれじゃダメだと観念して、そのまま近くの総合病院に検査に車を走らせる。

10:30頃、以前、この病院で急性肺炎で入院したので、呼吸器内科に受診する。ここは私の健康診断を毎回受けている病院でもある。担当医は前回の医師ではなかった。採血とレントゲン撮影が行われた。

 結果が解り、先ほど撮ったレントゲン写真と健康診断の写真と見比べながら「これが今の状態の写真で、こちらが健康診断時の写真です。」誠に右の肺の下半分が真っ白になっているのに私は唖然とした。前回は両肺が真っ白だったのでまた肺炎なのかと思った。しかし、意に反し、先生の口からは「胸水が溜まっていて抜かなければなりませんね。」「えー!」「さっそく抜いてサンプルを見てみましょう。何の原因で胸水が溜まったのか調べてみます。」「大変なことになったな!」

 私は心の中でこう叫んでいた。胸水という言葉を聞いて色んな病名が浮かんだ。社会福祉や介護の勉強をしていたので悪い病気だという事もうっすらと感じとっていた。胸水を背部から麻酔を打って50㏄ほど抜水してもらい、結果が出るまで、「胸水が溜まるっていったい何の病気?」と不安に自問自答しながら、結果を待った。

 昼が過ぎ、おなかが減ってきた。もううまいものは食えないのかなーなどと思い、食堂でかやくうどんを注文し味をかみしめながら食べる事になる。嫌な時間が流れたが、結果がでたので恐る恐る先生の説明を聞く。「

 癌の値は心配はない。他にこれといった危惧されるような数値も見当たらない。」という返答をもらいほっと胸をなでおろした。とそのつかの間、「このADAという数値は結核をあらわす数値で75%と高い。結核菌は見られていないが、可能性が高い。」もう少し、液の培養や、色んな検査が必要と思われる。」あーこれなのか。と内心思った。
このまま入院を進めるが、できるかと先生から尋ねられ、職場に連絡する。

 その後、先生より結核の場合についての説明を聞く。排菌している場合は、接触者検診がある。また、感染ルートも考えられるので、職場にも利用者、職員に結核患者がいるかどうかも調べる事になる。保険所の検査があるなど色々なことが起きてくると聞かされる。「貴方の場合は、結核菌が見つかってはいないが、その状態になればそういうこともありうるので考えておいてほしい」との事であった。これは、大変なことになったと思った。小さい孫たちが5人もおり、しょっちゅう家に遊びに来ているので、そうなければ良いがと祈らずにいられなかった。 
 
 15:00 妻に連絡し、そのまま入院となり、着替えなどを持ってきてもらうことになる。

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病名は、結核性胸膜炎です。

ー続きー
 原因がわからないため、病名は右胸水貯留という事で入院となる。治療計画は、原因精査、胸腔ドレナージ、とりあえず抗菌薬点滴を行うという事で2週間の入院となる。9月6日に局麻下胸腔鏡検査、胸腔ドレナージ術を行う事になる。
要するに、部分麻酔による内視鏡を使い、溜まった胸水を抜きながら、胸膜内を検査していき、胸水液によってできた膜をかき分け胸水を取り除く作業をするとの事、また液や細胞の培養サンプルも取るとの事。


「9月6日」
 内視鏡検査手術日
じいちゃんが軽トラックを運転してやって来てくれる。妻より聞いたのだろう。妻には付き添わなくて良いからと言ってあったので、じいちゃんには話しておいたのだろう。車の運転して町までやってくるのは心配だったが、痛い足で無理してわざわざ来てくれたんだなと言葉にはしないが心の中で礼を言う。

 じいちゃんは、大部屋の病室に入るなり耳が遠いせいで自分のしゃべっている声が聞こえないせいで大声で話し出す。「お前は一銭もならんことを、夜も寝んと一生懸命、人の為にやって身体を壊してしもたんや。もうそんな事せんどけや!体を壊したら元も子もないが!ゆっくり身体を休めなあかんぞ。手術頑張れな。」じいちゃんの有難い一言が身に染みる。

 手術にはA看護師が付き添って下さる。この看護師とは偶然の一致なのか、前回急性肺炎で入院した初日の担当看護師であり色々親切に説明してくれたり、夜も辛そうにしている私に幾度も気遣って声をかけてくれたのではっきりと覚えている。退院の折には、NO1看護師としてアンケートに記入して帰った記憶がある。今回も多くいる看護師の中から、この重要な日に付き添ってくださる偶然に感謝して、本人にそう伝えたのである。彼女はその愛くるしい表情に笑みを浮かべて「そうですか。手術頑張って下さいね。私付いていますから」と優しく答えてくれた。

 手術は1時間ほどで終わり最初の麻酔を打つ時が痛いと看護師から聞いていたので安心していた。
しかし、それどころではなかった。局部麻酔なので、手術中は執刀医と助手との会話が聞こえるし、何か内視鏡の中で切るような音も伝わってくる。最初の30分ほどは我慢もできたが、内視鏡を動かすたびに、何かを切るたびに、その痛みが徐々に増幅され我慢できないくらいの痛さが、ある程度の周期で襲ってくる。

そのたびに私は、手を握りしめ、痛さをこらえ、思わず堪えきれず、「痛い」と唸ってしまう。そのたびにA看護師が声をかけて下さり、「もう少しですよ、頑張って下さい」と優しく声をかけてくれ、手をさすってくれたり、噴き出た顔の汗を拭い去ってくれた。

「まだ、あるな。ここの所が入らない、取れないな。」「何とか取れないか?」先生たちも必死のようであり、私も精一杯我慢しようと頑張ってみる。「麻酔をもう1本打ちます。楽になりますよ。」もう我慢の限界にきているのを察してか先生の声が飛ぶ。あーこの痛いのはいつまで続くのだろう。止めて!というと無になるかもしれないしそんなことは言えない。じっと我慢だ!私の事を思ってくれているみんなのためにもここは死ぬ気で頑張ろうと必死で痛みを幾度も堪えてみる。

 しかし、堪えかねて、ついに「先生、なんでこんなに痛いんですか!」と思わず声を発してしまった。なんと弱い自分。なんで我慢できないんだ!その声を聞いてかどうかわからないが「ここはどうしますか?」「取れないなー」「これくらいなら残っても大丈夫でしょう」という声がする。これで胸腔検査は終わったのか。

 その後ドレナージを付ける時の痛さも、それは並大抵のものではない。身体全体を押し付けて取り付けるのである。肋骨が折れるのかと思うくらいの強さで抑え込まれて取り付けられる。後で看護師に聞いた話であるが、手術で頭蓋骨に穴開ける時と、胸部ドレーンを入れる時が一番見ていて怖いらしい。
 1時間半にも及んだ術後、耳元で看護師に指示する先生の声が聞こえる。「この状態は、やはりあの病棟へ転送ですね。部屋を用意してください。」
 天使のようなA看護師はもういない。かくして、私は結核患者の仲間入りという事になり、あの病棟(隔離病棟)の看護師が迎えに来て連れて行かれるのである。

 放心状態の私は、病棟に着き看護師からこの病棟の説明を聞く。廊下を出る時はマスク着用。面会時もマスクを着用。そして私の分身のドレナージの取扱説明を受ける。
 その後、じいちゃんもこちらに案内されて心配そうにマスク着用で入ってくる。完全に結核患者になってしまったんだなーと思った。じいちゃんは、また大部屋にいた時のような話を大声で話す。そして、ゆっくり休めという。私は、精一杯の声で、じいちゃんに、「もうあまり来なく良いから。車は気を付けて帰って」と送り帰す。心でお礼を言いながら。


 夕方、先生が枕元に来られ、術後の報告をされる。「1700㏄ほど廃液した。術後中、痛かったのは、胸膜の中に胸水によってできたゴムのような膜を取らないと液が取れない。それを切りながらの作業でその時が相当痛いのだという。頑張って取っていって取り除いたが、少量だが、取れないところが残っている。体内で吸収されるかと思うが、外科医の先生とも外科的手術が必要か相談したい。」「まだ、検査が残っているがジュックハック結核菌による胸水貯留と考えられる。」肝臓の値が非常に悪いので、今すぐ治療薬を投与できないが、肝臓の働きを良くする点滴を打ちながら、肝臓が正常になってから治療に入りたい。それまでに検査で病名をはっきりさせたい。」と言って帰られる。

「9月7日」
 術後、抗菌剤点滴と肝臓回復の点滴を毎日1回施行される。右胸部は術後の後遺症で相当痛みがある。ゆっくり歩かれない事はないが、1日目は車いすで移動する。大便の時は気張り方がわからず難儀する。ウオシュレットで肛門を刺激して排便しやすいよう力みやすいように工夫して何とか排便する。排便した時の爽快感は格別であり、ほっとする。また、バイタルは良好である。本日の胸水排出は100㏄ほどである。

「9月8日」
バイタル異常なし。
今日から三日間、痰の検査がある。排菌していないかどうかの検査である。先生より胸水内の組織培養の結果も来週の週初めにはわかるだろうとの事。 
 何とかトイレまでは歩けるようになる。まだ、シャワーは使えないので清拭をお願いし、頭をドライシャンプーしてもらう。食事は至って美味しい。何でも食べたい気分である。本日の胸水排出は150㏄ほどである。

「9月9日~9月10日」
 バイタル異常なし、傷口の痛みもなくなっている。
ドレナージが入っているせいか、入院以前の肋骨下あたりに重い圧迫感的なものが残っている。
これは、経過改善していくのだろう。この時より、胸水排出液は、30㏄ほどとほとんど見られなくなる。

「9月12日」
バイタル異常なし。傷口のぶよぶよしたところ(ドレアージ装着時の空気の層)もなくなってきている。

 先生より、検査結果の話があった。
結核菌は、肺内にも、肺外にも発見されていないが、結核菌は陽性と判定されたとの事で、病名は結核性胸膜炎と確定された。
 肝臓機能の数値は、帯状疱疹の薬で肝機能が低下したと思われるが、点滴や養生で健康診断時の数値に戻ってきているとの事。まだ一部の数値は高いが、治療薬を肝機能低下で止めなければならないリスクは少ないので、9月14日より結核治療薬の服用ができるだろうとの事。
 胸腔ドレナージも排出液が止まったので、その日にはずすとの事。
薬を飲み始めると、殺菌されて、晴れて隔離病棟から普通病棟に移れるのだろうか?



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結核菌治療薬服用へ

「9月14日」
この日もバイタルも異常なく、早朝より採血、検尿、検淡を実施する。その後、ツベルクリン反応、心電図検査、胸部写真撮影を行った。この検査結果で治療方針が決まるとの事。

午後より、先生が胸腔ドレナージを外しに来られる。処置はあっという間に終わり、ほとんど痛みはなかった。外し終えた後、2針縫ったがこちらのほうが痛かった。

その時、先生より検査結果の説明があった。「やはり菌は肺内にも肺外にも見つからない。しかしながらツベルクリンや他検査数値から陽性であり、本日から予定通り結核菌治療を行う。」という事であった。ともかく治る病気であるという安ど感があり、普通病棟で良いとの事で指示が出て気持ちは晴れ晴れしていた。これでまた世間の方とお仲間入りとなった。もう大手を振って面会や館内を歩けるのだ。大きな解放感だった。

今後は、毎朝、結核菌治療薬服用し、あわせて肝機能向上薬も毎食後服用していくとの事。
抗菌薬点滴は中止となる。

「9月15日~9月17日」
 至って調子が良い。食事も美味しい。気にかかるのは職場へ出した診断書の期限が切れている事だ。先生に話すと、順調にいけば2週間入院で2週間自宅療養で職場に復帰できるのではと言われる。
自宅療養2週間は欠勤扱いになるので入院3週間、自宅療養1週間でお願いしたいと話す。了解して下さる。
やはり自宅療養では任意保険が使えないので苦しい。
 
「9月18日」
 先生より約束した診断書を頂く。
 午後より、県健康福祉センター(保健所)から職員が見えられ、結核について、私の場合の対応を説明に来られる。

上記の件についてまとめてみた。

主治医より治療について

病名は、結核性胸膜炎。
9/6 下胸腔鏡検査、胸腔ドレナージ術施行。9/14までで胸水2000ml排出。
結核菌については、胸水、組織培養の結果や、肺内の、咳、痰の中にも確認されず。
結核菌指標マーカー値が高い為、上記病名にて確定する。
肝臓が弱っているために(帯状疱疹時の服薬の副作用と思われる)肝臓保護のための点滴開始。
(結核菌治療薬は肝臓に負担が強いため)抗菌剤点滴開始。
9/14 点滴を中止し、結核菌治療薬投与開始。肝臓保護剤服用。
今後、熱や胸水の改善が見られない場合は、他の病気も考えられる。
検査時には、胸水がきれいに取る事ができなかったため、場合によっては外科手術もあり得る。
これらの場合は、治療方針も変わってくる。

今後の治療方針については、今後3週間入院と1週間の自宅療養にて、
経過の改善や結核菌治療薬の副作用と、肝臓の状態を見ながら耐性菌ができないよう
今後の長期治療(通院服薬治療)が完全におこなえるよう取り組むと同時に、職場復帰をめざす。


健康福祉センター 職員よりの説明内容。

本人との関わりについて

必ず治療薬を決められた日数だけ服用する事が法律で定められている。一定期間治療する事で完治する病気である。
治療期間中は体調を崩さないよう無理はしないよう業務に当たることが必要であり、職場の方にお願いして欲しい。
肝臓の事もあるので注意して欲しい。
もし、服薬治療を怠ったり、できなくなった場合は、耐性菌ができ、治療が困難になり治りにくくなる。
また、肺外結核菌は、血流に乗って体内に有るので、それを治療するには服薬期間は長くなる。
期間は医師から報告あるが6~9か月必要である。


職場や、周りの人との関わりについて

結核菌の排出はないので、接触者検診は行わない。
どこで、どのようにうつったか確定できないが、
利用者の中や周りに、咳や微熱が続いているという人はいないようなので
職場や地域に保健所のものが行くという事はない。
結核性胸膜炎は、肺外結核なので、本人と接触したりしても、他人に移すことはないので心配はいらない。
また、治療薬を飲んでいるので、一般の人よりも一番感染させない安全な体の状態である。
もし、環境的に心配ならば、結核菌は、紫外線に弱いので、軽く天日干しをすることにより死滅する。
また、軽い浮遊物で体内に入らない限り死滅する。換気を行うとよい。
     
                    以上

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退院はいつになるの?

CIMG3310.jpg「9月19日~9月23日」
最近調子が良い。先生より30日ぐらいには退院できるのでないかとの話がある。ぼちぼちリハビリをしたほうがよいのかなと思い、病院の外をゆっくりと一回りした後8階までの病棟の上り下りを朝昼行うことにする。
さすがに上ると息が切れる。やはり一度ふさがった右肺はまだ元に戻っていないようだ。15分ほど8階で休んで下に降りる。
今頃になって夕方になると時々微熱が出るようになる。抗菌剤点滴で熱が抑えられていたのだろうか。気になる。
19:00頃検温
 9/18 37.1 9/19 36.4  9/20 37.4  9/21 37.4 9/22 36.8 9/23 37.0 

「9月24日~9月30日」
先生より退院の話もあったので体力を少しでも取り戻そうとリハビリを引き続き行う。9月25日には、少し遠出し山のふもとや、公園の空き地で斜め懸垂を行う。久々で手がだるくなってしまった。次の日、それがたたり上肢に筋肉痛が走る。痛くて両腕とも曲げる事が出来ないほどになった。それほど強い運動をしたとは思わないが、筋肉痛の山は検温でもわかるように9月28日だった。そのためか、夕方だけ出ていた微熱が日中も出るようになる。先生には散歩に出て動きすぎてしまった。と報告する。
9/24 36.9 9/25 37.0 9/26 37.4 9/27 37.7 9/28 37.4 38.0 9/29 37.6 37.2 9/30 36.8

「10月1日」
先生が来られ、明日は検査を行い、まだ少量残っている胸水について取るかどうか外科医の先生と相談してみたいと話される。また、一部肝臓の数値が悪くなってきているので、様子を見たい。との事だった。
退院については、まだ先になるだろうとの事。
今日は微熱は出ていない。検温 朝36.8 昼36.8 夜36.8 SPO96

「10月2日」
 先生より、「肝臓の数値が悪くなっており、治療薬はいったん中止。もう一度肝臓の調子を見ながら薬の服用を調節していきたい。いままでの中の薬で粉薬(ピラマイド原末)は中止する。服薬期間は、9か月予定だったが1年くらいに伸びるだろう。また、入院期間も、もう一度肝臓の数値が戻ってから服用になるので、まだ先になります。」

 ショックを受け血の気が引いた。頭の中で色んな事を自問自答する。やはり、退院に備えたリハビリはいけなかったのか。職場復帰はいつになってしまうのだろう。今まで段取りしていた10月14日の壮年会研修旅行や、10月21日の和太鼓クラブ研修旅行も完全にいけなくなるなーと、次々と脳裏に浮かんでくる。

先生には9/25頃のリハビリについて正直に話すと、先生は困ったような顔で、「肝臓に直接影響はないが、身体に強い負担がかかり、それが肝臓の負担になるので、そこまでのリハビリは必要ない。菌と戦っているので安静が基本」と言われた。間違いなく肝臓の数値に影響したことは間違いない。やはり、普通の身体ではないのだ。いつもの調子で動いてはだめで、身体に見えなくてもデリケートなのだ。

 まだ耐性菌ができたわけでもないのだからと自分に言い聞かせ、これを教訓に生かしていこうと思う。
体力に自信が着くまであまり早い退院は困っていた。が今は、いつになったら退院できるのだろうか心配になっている。検温 36.8 37.0 36.8 SPO96 相変わらず血中酸素濃度は低い。ずっと96より上がったことはない。やはり散歩の後の息切れがある。

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治療薬服用再開に向けて

「10月3日」
 朝の空気は清々しい。朝刊を見ると今週も晴れマークが並んでいる。最高気温も27℃最低気温16℃と秋の真っただ中といった感じである。筋肉痛もすっかり納まり、気分も体調も良い。一点の事だけは除いて。

9:00頃、気を取り直して街中を散歩に出かける。そう、無理をせずにね。途中ファミマでちょっとエロチックな漫画本(まだまだ若いですね。(^_-))と肝臓に良い納豆を買う。1時間半ほど歩くと身体はほかほかになった。 昼からは入浴をする。朝方36.4度 昼には37.2度入浴後には36.7度と下がっている。

17:00頃先生が見えられた。レントゲンの結果は、変わりないとの事。外科の先生とも相談したが手術してまで水を抜く必要はないだろう。このまま診ていきたい。との事。
少し暗い気持ちの中に、一筋の光が当たった。夕方36.7度

「10月4日」
 私の肝臓は、健康診断での通知も良く、いままで一度も肝機能問題でで引っかかったことはない。肝血管腫なるものがあるが、ほくろのようなもので毎回のエコー検査でも異常はない。肝臓に関係があるなら、しいて言えば胆嚢の袋の中の下に泥のようなものがあるらしく、それも機能に問題しているものではないとの事。いたって健康である。が治療薬では中止しなければならない事態になっている。

 肝臓を健康に保つために、強くするために何かないかネットで調べる事にした。ウコン茶、クマザサ茶、ウコンはかえって悪く作用することもありそうでやめた。クマザサも今飲まなければならないという感じでない。焼き鳥屋が近くにあるので、レバーを2日に1回でも食するようにしてみようと思う。さっそく夜勝って2本ほど食べる。朝は、納豆を食べる事にする。散歩時間 朝 1:30 夕 1:00 検温 36.4 37.2 36.7

「10月5日」
 秋晴れのなか、午前中は、1:30ほど散歩して日曜日のマラソン見学の為の場所決めに行く。その後入浴は半身浴を行う。午後より看護師さんに採血の結果をお聞きする。

 肝臓機能は、ASTは9/20 28(正常値) 10/2 320 105 59 ALT 9/20 40(正常値) 10/2 225 10/5 70 と両方の値が正常値に近づいている。それにしても10/2の値は異常なくらい。先生も言っていたが、薬が蓄積していって、私の身体には薬が合わない体質なのかもしれない。これからどのような治療になっていくのだろうか?検温 36.4 36.5 36.7 SPO 96

「10月6日~10月9日」
 6日、7日と夕方は37.0度の微熱あり。まだ、治療薬服用を止めても時々微熱が出るようだ。服用とは別物なのか、体の中では戦っているのかな。日中は2、3時間くらい散歩し、無理のないリハビリで身体を動かすようにしている。「10月7日」は、うちの孫を連れて福井マラソンの応援に行く。子供たちや職場の仲間の元気に走る姿を見てこちらも元気をもらう。しかし4時間ほど外出したのでさすがに疲れ、帰った途端ベットにバタンキュだった。

 食事については、病院で出される食事以外に、朝は納豆、夜は2,3日に一度レバーを食べることにしている。10月に入ってからネットで調べ肝臓の機能回復のため摂ることにした。

 9日19:30頃、先生が採血の結果と今後の治療について説明にみえられた。
肝臓機能も正常値に戻ったので明日より服薬治療再開をする。減感作治療法という方法で、まずは3種類の薬を1錠づづから始め、2,3日ごと肝臓の数値を見極め増量していく方法を取るとの事。最終的に3錠づつのめて、問題がなければ退院との事。肝臓の保護薬はこのまま継続。

 先生への質問として 1.耐性菌というのはどれくらいでできてくるのか?→薬を止めて1週間くらいなら大丈夫。2.結核菌が見つかっていないのに耐性菌ができたかどうかわかるのか?→わからない。臨床で見つける事になる。3.肝臓が薬に合わないようだが、治療薬を1年間飲み続けて風邪などの他の病気にかかったりした場合肝臓に負担がかかり、また薬を飲めなくなるのでないか?→肝臓も薬に対して免疫ができてくるので、飲み続けていればそう心配することはない。
検温 10/6 37.0(夜) 10/7 37.0(夜) 10/8 36.7 10/9 37.0(昼)
  



 

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再び治療薬開始

「10月10日~12日」
 治療薬 ピラマイド原末を除く、イスコチン、エプトール、リファジンカプセルの3薬を1錠ずつ朝食後服用開始。また、毎食後に治療薬副作用予防薬、肝臓機能改善薬、胃粘膜保護薬を服用する。
 職場の栄養士が見舞いに来てくれ(いつも有難うね)、レバーの摂り過ぎは鉄分過剰となるため要注意との事。私の場合ヘモグロビン(HGB)、ヘマトクリット値[HCT]が感染症の為、基準値より少ないので1週間に一度づつ少量摂ることにする。また納豆は夕食に摂るのが効果的との事。

10日未明より雷が鳴り、早々に目が覚めてしまった。外は久しぶりの雨音。天気予報を見越して今日の散歩は取りやめ、妹の送り迎えで姉のところに散髪に行く。女心と秋の空というが昼にはすっかり晴れ渡っており、夕方1時間ほど散歩する。検温36.8

11日の午前中、雨の予想も外れ、くもり空ならと思い足羽川らまで散歩に出かける。何のことはない暑い日差しに見舞われてしまい着ていた長袖も脱いでの散歩となってしまった。日陰もなく体調壊さないかと心配だったが、息苦しさは右の肺にあるものの体力も戻ってきたのか調子も良い。胸水後の傷も癒えて、リハビリの効果なのだろうか。
夜、いつものように妻と話していると、経過を見にやってこられた先生が妻に今後について説明して下さる。順調にいけば16日には3錠づつ飲めるようになる。3錠づつ飲み続けて、熱も上がらなく、肝臓の数値も落ち着いていれば退院できるが、退院日は結果次第なので今は何とも言えないとの事。妻より散歩を無理しないようにと言われる。検温36.7

12日の午前中は、姉に病院に寄ってもらい、姉の車を拝借し自宅に入院後初めて帰宅する。じいちゃんは相変わらずユンボで外仕事をしている。麦撒きの田んぼを見て回わったり、自宅の伝言板に目をやったりしていると、あれやこれやと気になることばかり。同じ頃、職場より「今日からのケアマネの更新研修欠席の連絡したのか」とメールが入る。うまく対応して下さって事なきを得たが、すっかり入院ボケしてしまった頭の中に生活実感が戻ってくる。早く良くなって退院しなければと思う。午後より採血の結果説明が先生よりあり、肝臓の数値はすべて基準値内で、13日より治療薬は2錠づつにアップするとの事。ひとまず安心する。
検温36.6

「10月13日~15日」
毎朝、治療薬6錠+レパミビド錠(胃薬)、ウルソ錠(肝臓薬)、ピドキサール錠(イスコチンの副作用予防)服用。昼、夜は治療薬以外3錠服用。
日中は、天気も良いので無理のないよう、少し汗ばむ程度に散歩を体調を考えながら2、3時間行う。汗で体内毒を外に出すのも必要だろう。
15日夕、先生より採決結果の説明を受ける。肝臓の数値も良いので、明日より規定量の3薬を3錠づつ服用する。
今後18日、22日に採血して数値が悪くなければ23日ごろでも退院は可能との事。とついに退院の声を聞くことができる。
自分でも前回より動いていても身体の節々が痛いとか、右胸部下の違和感もさほど気にならなくなっているので、今度は間違いないかなと思う。

看護師に後で検査結果を見せてもらうと、HGBヘモグロビン値,HCTは感染の影響を受けてかそのまま標準値以下になっている。CRP定量値も軽い炎症範囲にまでになっている。MONO,アルブミン値(肝硬変的数値)で基準値より悪いが徐々に改善が見られている。今後の服薬増量でどう変化するのか先生も結果次第との事。
ともかく退院に向けて無理のないよう動いていくことにしようと思う。
検温は、36度台と3日間熱は出ていない。

[10月16日~18日」
 毎朝、治療薬9錠(イスコチン、エプトール、リファジンカプセル)+レパミビド錠(胃薬)、ウルソ錠(肝臓薬)、ピドキサール錠(イスコチンの副作用予防)服用。昼、夜は治療薬以外3錠服用。そして、この量で1年間服用していくことになる。

 18日、微熱も9日間出ていない。採血結果は、前回数値とほとんど変わらず。(総蛋白6.4 アルブミン3.6 Hb12.4 Ht38.0 MPV8.5 単球9.5は規定値外)CRP値は0.4と、もう少しのところまで改善してきている。夕方、先生より、土曜日の外泊許可を頂く。また、退院については、22日の採血の結果、このまま数値が変わらなければ、23日でOKだろう。体調を見て仕事復帰できるだろうとの事。
まだ、激しく動くと息も切れるし、動いた後低血圧の症状もある。また、長く座っていると、たぶん後遺症だと思うが、右肋骨の下(胸水が溜まっていたところ)がぐっと押されたように違和感が出てくる。しかし体調も良く、それほど疲れる事はないので仕事に出るまでには落ち着いてくるのでないかと思っている。

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いよいよ退院!

「10月19日~23日」
 19日、保健師さんの面会あり、病棟師長と退院前カンファレンスを行う。支援計画書をもとに退院後の今後の流れの説明、注意点、質問について行われる。

説明は、主に服薬管理についてで、DOTS(ドッツ・直接服薬を見守り管理する方法)方法、また確実に服薬する方法を伝授される。
・服薬カレンダーに薬を入れる。・家人に見届けてもらう。・朝飲み忘れ時にはその日の内に飲む。・飲み終えた治療薬袋は、捨てないで検診時にまとめて病院に提出する。・月1回保健師が電話で確認。・毎日服薬手帳に記入する。

保健師からの質問では、家族、職場の理解は得れているか?-メールにて詳細を説明したので大丈夫と答える。
こちらからの質問については、
・まだ胸にゴム状の膜と胸水が少量残っているが、隠れている結核菌に薬は効くのか?残っている胸水が膿胸に移行してはいかないのか?-結核菌には色々な種類があるが、それらに対して、殺したり、バリヤをかけ活動できないようにする。私の場合は、体の隅々まで行き届かせるのに1年間が必要である。服薬を守っていれば安心してよい。との事。
来年の9月までかー。ながいなー。
・1年間飲み続けて、肝臓が悪くなったり、薬でフラフラになったりしないのか?-その為に定期検診があるのでその都度検査し、悪くなった場合には、服薬方法を変えたりして耐性菌ができないよう服薬を続けられるよう治療を行う。気になることがあれば病院に問い合わせすること。
何とか続けて飲んでいけるのかなーと気になる。

 20.21日は、外泊の為、午前中は1時間ほどの散歩で置く。16時ごろより帰宅。翌日の16時まで末っ子と、そのの孫3人と妻とで過ごす。排菌もないし、薬を飲んでいるので心配はないのだが、それでもご飯食べたり、飲み物を飲む時は交わらないよう気を付ける。それでも「お父さん、気を付けて頂戴」と飲んだり食べたりするごとに妻の言葉。それはないでしょ!やはり、みんなには怖い存在なのだろうか。職場の人も理解してくれるのかと気になる。
相変わらず、じいちゃん(父)は、ユンボで田んぼの畔を作っている。良く働くね。
病院に着くと、さすがに疲れたのか37.2度の微熱が出ている。

 22日、眼科受診(薬の後遺症を診る為)結果は異状なし。採血では、前回数値とほとんど変わらず。(総蛋白6.2 アルブミン3.5 Hb12.2 Ht37.6 MPV8.4 単球10.7等は規定値外)CRP値は0.2と、基準値になり改善した。ほかの数値も良くなっていくのだろうか。
夕方、先生が見えられ、退院しても良いだろうと朗報を伝えて下さる。先生には、毎日のように病室に訪ねてきて親身になって対応して下さり、心からお礼を述べる。23日、午前中退院。2日間自宅療養し、26日より出勤することになる。

次回、受信日は2週間後の11月5日となる。

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散歩中に見つけた変わったスポットを紹介

CIMG3313.jpgCIMG3445.jpg世直神社 近くに変わった名前の社を発見。いわれは、江戸時代当時、北陸道を旅するものが行き倒れで沢山の人が亡くなった。その人たちの墓として村人が一里塚を作り葬った。それを知った時の代官である鈴木氏がその善行を褒め称え村人たちの税金を安くしたという。村人たちは彼を崇拝し祭り上げお社をつくった。
CIMG3316_20121023051237.jpg福井が生んだ岡田啓介総理大臣直筆の書。二二六事件では義弟の身代わりで難を逃れた。彼は苦学して海軍大臣から戦前の清貧な総理大臣になった。その後長老となった彼は、東条内閣打倒を画策し戦争を終結に導いた影の実力者である。GHQからは「戦前を代表する平和主義者」として歓待されている。
CIMG3320.jpg明治5年、はじめてこの地に小学校ができた。お寺の境内を使ったが、当時の小学校は、床は畳敷き、周りは障子張りの寺子屋ふうであった。
CIMG3422.jpgCIMG3423.jpg散歩コースの山の上から見た故郷町並み、はるか向こうには海が見えるかな(^_-)。
CIMG3435.jpg頂上付近の藪の影らに見つけた不気味な檻が二つ。中にはカラスが7、8羽いる。駆除目的なのか。この周りを歩いているとなぜかトンちゃんの匂いがする。夜は、この山にカラスの大群が生息している。
CIMG3437.jpg山頂墓地で見つけた墓標の一つ。なるほどー(ー_ー)!!
CIMG3446.jpgきれいな朝焼け







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筆記者の紹介

yukasi1

Author:yukasi1
2012年10月現在、男性59歳、某介護施設に勤務している。17年間、特養・デイサービスにて介護職やケアマネに従事させていただいている。定年前にして、この長期治療を経験する事になった。
この病気はどのようなもので、どう進展していくものなのか治療時には心配だった。同じ思いをしている人や、悩んでいる人に少しでも参考にしていただければと記録する事にした。

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